兵庫まなべ会

兵庫まなべ会のあゆみ

(お名前は順不同、敬称略)

 昭和56年8月30() 全国まなべ会設立総会(1回全国大会)に中町(現多可町)真鍋又治郎氏が参加、総会の決議に基づき『兵庫まなべ会』設立活動を開始するも志半ばにて他界、活動は中断。
   
 平成9年9月14() 重治元全国会長、喜代司前神奈川会長・梅美静岡会長他が中町(現多可町)を墓参訪門され、『兵庫まなべ会』設立要請を受く。
   
 平成11年5月22() 『兵庫まなべ会』発足第1回役員会を開催。出席者は一夫会長、成之・博・栄三各副会長、富夫事務局長の5名です。
 平成11年6月1日() 『兵庫まなべ会』発足。岐阜・大分まなべ会も同時発足。
 平成11年9月26() 20回阿波全国大会に兵庫まなべ会として初参加、一夫、壽、厚吉、成之、博、利春・富夫夫婦の9名参加。
   1128() 兵庫まなべ会中町支部発足総会を開催、出席者は正、一夫夫妻、成之、亨、和也、忠由、義晃、智文、寿郎、卓弥、博、富夫夫妻の14名。(会報第19)
 平成12年4月9日()  舞子ビラにて兵庫まなべ会設立総会を開催、出席者35名。記念講演は禮三全国会長の『瀬戸内海を繞る人びと』。(会報第20)
   6月3日()  21回岡山全国大会が岡山国際ホテルにて開催、当会々員出席者は一夫、壽、厚吉、成之、博、諄一、利春・富夫夫婦、栄三夫婦・姉妹の14名参加。(会報第20)
 平成121125()  うず潮にて平成13年度兵庫まなべ会総会を開催、出席者30名。記念講演は武彦さんの『兵庫の深層水の開発について』。(会報第21)
 平成13年5月12()  当会担当の姫路全国大会を姫路キャッスルホテルにて開催、参加者151名。当会々員出席は37名。(会報第22)
  6月24()  姫路大会実行委員会解散パーティーを神戸市湊川神社内の楠公会館にて開催。出席者15名。(会報第22)
 平成131118()  神戸シーパル須磨にて平成14年度兵庫まなべ会総会を開催、参加者17名。役員改選、全員留任 (会報第23)
 平成14年1月5日()  阿波まなべ会の佳資先生を招き薬草の勉強と七草がゆ造りを中町生活環境グループと共催、於:中町曽我井GP
   6月12()  22回紀州白浜全国大会が白浜町白良荘グランドホテルにて開催、当会々員出席は一夫、壽、厚吉、成之、博、諄一、利春・富夫夫婦の10名。(会報第24)
 平成141124()  兵庫まなべ会15年度総会を中町ココロン那珂にて開催、参加者22名。(会報第25)

 平成15 510()  新居浜全国大会がリーガロイヤルホテル新居浜にて開催、当会々員出席者は和子、一夫、壽、成之、博、厚吉、諄一、朝惠、よりゑ、利春・富夫夫婦の13名参加。(会報第26)
 平成151124()  兵庫まなべ会16年度総会を舞子ビラにて開催、参加者18名。(会報第27)
 平成16 528()  東京全国大会が新高輪プリンスホテルにて開催され、当会々員出席者一夫、利春・栄三夫婦、壽、博、諄一、成之、富夫の10名。(会報第28)
 平成161123()  兵庫まなべ会17年度総会を神戸市シーパル須磨にて開催、参加15 名。役員改選期で全役員の留任に加え、新役職に朝惠婦人部長、政裕会計を夫々新任。(会報第29)
 平成17 529()  倉敷全国大会が倉敷アイビースクエアにて開催、当会々員出席者一夫、利春、壽、富夫、博、諄一、朝惠、誠次夫妻、よりゑ、成之の11名。(会報第30)
 平成171126()  兵庫まなべ会18年度総会をたつの市国民宿舎新舞子荘にて宿泊開催、参加者16名。(会報第3031)
 平成18 611()  京都全国大会がからすま京都ホテルにて開催、当会々員出席者は一夫、栄三、利春、修司、厚吉、和子、壽、諄一、富夫夫妻、博、朝惠、誠次夫妻、よりゑ、亨夫妻、成之の18名。

会報第32)

 平成181126()  兵庫まなべ会19年度総会を神戸市シーパル須磨にて開催、 参加者18名。(会報第33)
 平成19 520()  高松全国大会が高松国際ホテルにて開催、当会々員出席者一夫、修司、厚吉、壽、諄一、富夫夫妻、朝惠、誠次夫妻、亨、成之の12名。(会報第34)
 平成191125()  兵庫まなべ会20年度総会を()日本勤労福祉センター『赤穂ハイツ』にて宿泊開催、参加者14名。(会報第35)役員改選期で諄一会長、正昭会計を選任・委嘱、一夫会長、朝恵婦人部長、正裕会計等は夫々退任、他は留任。
 平成20 3 1()  『兵庫まなべ会だより』初号発行し、全会員宛に送付。
 525()  旭川全国大会への当会々員出席者厚吉、寿、誠次・富夫夫婦の7名。(会報第36)
 平成201116()  兵庫まなべ会21年度総会を神戸市シーパル須磨にて開催、参加者は12名。(会報第37)
 平成21 1 1()  『兵庫まなべ会だより』02号発行し、全会員宛に送付。
   516()    徳島全国大会への当会々員出席者は栄三、厚吉、和子、寿、諄一、博、朝恵、亨、成之、一夫、誠次・富夫夫婦の14名。(会報第38)
  6月20()  8月29日(土)、全国大会準備第1、及び2回臨時役員会を開催。
 平成2111月22()  兵庫まなべ会22年度総会を多可町立エーデルささゆりにて開催、参加者26名。(会報第39)
 平成22 1 1()  『兵庫まなべ会だより』03号発行し、全会員宛に送付。当会担当にて
 515()  30回記念神戸大会をホテルパールシティー神戸にて開催、参加者102名、内当会々員29名。(会報第40)
記念品の瓦せんべい
   8 7()  神戸大会実行委員会解散パーティーを加古川市赤坂飯店にて開催。出席者13名。(会報第40)
 平成221123()  兵庫まなべ会23年度総会を加古川市『かき庄』にて開催。役員改選期で成之会長、亨副会長、政裕監査を選任・委嘱、諄一会長は退任、他は留任。
 平成23 1 1()  『兵庫まなべ会だより』04号発行し、全会員宛に送付。
   611()  紀州白浜全国大会への当会々員出席者は栄三、厚吉、寿、諄一、朝恵、成之、誠次・富夫各夫婦の10名。  (会報第42)
 平成231127()  兵庫まなべ会24年度総会を来賓に稲村和美尼崎市長を迎え尼崎市ホテルホップイン『アミング』にて開催。
 平成24年1月1日(日)  『兵庫まなべ会だより』05号発行し、全会員宛に送付。
   5月12日(土)  九州大会への当会々員出席者は諄一、成之、栄三、富夫夫婦の5名。
                                  (会報第44号)
   6月1日(金)   兵庫まなべ会HP開設 *インターネット「兵庫まなべ会」て検索。
 
 平成24年 10月28日(日)  真鍋島探訪、及び兵庫まなべ会25年度総会を車中開催。28名参加
  平成25年 1月1日(土)  『兵庫まなべ会だより』06号発行し、全会員に送付
  5月25日(土)  第33回笠岡大会が笠岡グランドホテルにて開催。参加者82名
兵庫より、栄三、辰子、諄一、朝恵、成之、誠次、富夫夫婦の8名
 
 平成25年 11月24日(日)  兵庫まなべ会26年度総会を「シーサイドホテル舞子ビラ神戸」にて開催。
参加者13名。役員改選で、『栄三新会長』・『誠次新事務局長』を選任。
会則第5条第二項に特別顧問を新設して、『富夫特別顧問』が就任。
  平成26年 1月1日(水)  「兵庫まなべ会だより」07号を発行し、全会員に送付。
  5月17日(土)  第34回「伊予道後大会」が道後温泉ホテル椿館にて開催。参加者88名
内当会よりの出席者は(諄一、成之、栄三、壽、亨、誠次夫妻)の7名。<会報第47号、48号>
 
  11月23日(日)   平成27年度総会を加古川市内の牡蠣料理老舗「かき
庄」にて開催。(参加者は、孫1名、女性3名と男性9名
の全13名)
平成27年4月1日(水)   兵庫まなべ会だより第8号を発刊し、全会員48名に配布した。
  5月23日(土)   兵庫まなべ会元会長(H19年11月〜H22年11月)として貢献された眞鍋諄一様が病気療養中のところ逝去されました。(兵庫県たつの市御津町朝臣1404-8)
  5月24日(日)〜25日(月)   第33回全国まなべ会記念熱海大会が熱海後楽園ホテルにて開催された。全国から参加者100名。当兵庫まなべ会からの参加者は(栄三、朝恵、誠次夫妻)4名で、富士山の世界遺産に関する見識を広めた。(会報第49号、50号)
 
  11月15日(日)   四国中央市の平家伝説の里「真鍋家住宅」と「切山」探訪日帰りバス旅行を
実施。愛媛県四国中央市金生町山田井切山、国指定重要文化財「真鍋家住宅」を見学し、平家伝説の「切山」を探訪して見識を深めた。
(兵庫まなべ会会員19名が参加)
  12月8日(火)   兵庫まなべ会初代会長、真鍋一夫様が病気療養中のところご逝去されました。平成11年6月1日、兵庫まなべ会設立に苦心され、設立当初からの会長職を9年間務め、全国まなべ会と兵庫まなべ会の育成に多大な貢献をされた。(兵庫県多可郡多可町中区奥中867)
平成28年4月1日(金)   会報だより「兵庫まなべ会だより第9号」を発刊し、全会員48名に郵送した。
  4月4日(月)   兵庫まなべ会と全国まなべ会発展のため貢献された兵庫まなべ会会員
(全国まなべ会評議員)眞鍋 勇様がご逝去されました。
(加西市青野ヶ原町191)
  5月221日(日) 〜23(月)   第36回全国まなべ会総会「大阪大会」が箕面観光ホテルに於いて開催された。全国からの参加者110名。兵庫まなべ会からの参加者は全国まなべ会会員との親睦を深め、翌日の史跡めぐりにより見識を深めた。兵庫の参加者は9名でした。(栄三、緑、朝恵、誠次、文子、成之、正昭、公一、末廣)
会報第51号、52号
  6月21日(火)    兵庫まなべ会と全国まなべ会の女性部発展のために貢献された兵庫まなべ
会会員(全国まなべ会評議員)真鍋 よりゑ様がご逝去されました。
(西脇市八坂町213-18-301)
 
   11月23日(日)  兵庫まなべ会29年度総会並びに源平合戦と須磨寺探訪
1.神戸市立須磨離宮公園内のレストハウスにて総会、懇親会。
2.須磨寺に於いて源平合戦を歴史探訪(会員15名が参加)
  12月1日(金)   兵庫まなべ会事務局長兼全国まなべ会組織部長として貢献された全国、兵庫まなべ会
特別顧問の真鍋富夫様がご逝去されました。
兵庫まなべ会設立に苦心され、設立当初からの真鍋一夫会長を補佐し、また全国まなべ会の発展にも多大な貢献をされた。(明石市沢野1丁目2番3号)
 平成29年4月1日   会報「兵庫まなべ会だより第10号」を発刊し、兵庫まなべ会会員40名に郵送した。
  5月21(日)〜22(月)  第37回全国まなべ会総会「讃岐こんぴら大会」 が、金毘羅温泉「琴参閣」において開催された。
兵庫まなべ会からの参加者は、壽夫妻、成之、栄三氏等で
全国まなべ会会員との親睦を深めた(会報53号、54号)
  5月9日(火)   平成29年に京都(山科)へ転居し療養中のところ「全国まなべ会顧問」の真鍋和子様がご逝去されました。
(西宮市段上町二丁目2-2-41-406)
 
平成29年11月23日(木)   平成30年度の兵庫まなべ会総会・懇親会・歴史探訪を開催。
 姫路市総社本町190「和ダイニング三日潮」に於いて、総会・懇親会を開催した。恒例の歴史探訪は「世界遺産・国宝姫路城」
周辺をボランティアガイドの案内により実施した。最後に姫路城
西御座式敷跡庭園「好古園」の紅葉狩りを鑑賞(参加者13名)
平成30年4月1日(日)  会報「兵庫まなべ会だより」第19号を発行し、兵庫まなべ会会員38名に郵送した。
  6月10日(日)〜11日(月)   平成30年度の第38回全国まなべ会総会は、紀州白浜温泉で開催された。場所は白浜温泉で超一流ホテル「川久」で開催された。兵庫まなべ会からの参加者は、壽、辰子ご夫妻と誠次の3名が参加し、全国まなべ会会員との親睦を深めた(全国会報第55号、56号)
   

            兵庫県と多可町の『まなべ』さん

 全国でまなべ姓が多い都道府県は愛媛県(1652)、香川県(1550)、大阪府(917)、北海道(697)、福岡県(668)と続き、次の6番目が我が兵庫県(552)です。 ( )内は第35号全国まなべ会々報よりの世帯数を示す。

 しかし、歴史上「まなべ」姓が文献で初めて登場するのは「まなべ」姓の多い愛媛や、香川ではなく我が兵庫県です。平家物語巻9「二度懸」に出てくる平家方の備中国まなべ島の住人真鍋()四郎祐久、五郎助光兄弟です。

 (同兄弟の消息についての考察を第56号阿波まなべ会々報に全国評議員の利夫さんが記しておられるので次頁に転載します)

 約820年の昔、寿永3(1184)27日、登場する場所が現在の神戸市は三宮の繁華街、現在の生田神社界隈です。源平合戦にかかわる史跡や、遺跡などは県内に多くありますが、平家方の五郎助光兄弟に関するものは残念ながら見当たりません…が、彼に射倒された武蔵国住人河原太郎高直、次郎盛直兄弟の祠が戦災、都市計画などにより転々と場所を変えて、現在は三宮神社境内の隅にひっそりと鎮座しております…、が…真鍋()の文言は全くありません。

 これは平家物語原本の作者として有力視されております信濃前司行長(  しなのぜんじ  ゆきなが)が作り、(しょう)(ぶつ)と言う盲目の音楽家に教え語らせたや、源光行などとともに源氏方の流れをくむ方々の作であり、又、物語が源氏方からみた展開(勝者の論理)となっております。このため同兄弟に係る史跡、遺跡のたぐいが見当たらないことと関係があるのではと存じます。

 多可町の真鍋さんはこの時代から、現在の場所に住み始めたと伝えられております。

 昭和58年第1回全国まなべ会まなべ島大会(総会)にご参加された故真鍋又治郎さんが下の通り大阪まなべ会の会報第5号に語っておられます。

 しかし、生田の森ではなく、一の谷の北方は加東郡社町 (現加東市)の三草山ふもとで防御していた平家方の大半の郎党は加古川を下り屋島へ逃走したが、加古川を北上して落ち延びた子孫であるとも言われております。

  昭和5961日付第5号大阪まなべ会々報より

  

 
瀬戸内海の水軍と真鍋島 
 真鍋島は瀬戸内海の東西両潮の分岐点に位置し,古来より内海航路の要衝地であった。島名は魚部(まなべ)よりきていると言われ,西行法師の山家集(1190)の「まなべ」の歌や,寛永年間(1624〜40)の鯛網の記録等はこれを裏付けるものであろう。この島については島名と同じ真鍋氏について述べる必要があることは言うまでもない。
 由来,真鍋氏は平安時代に移住し,この島を本貫とする開発領主と考えられる。かの「平家物語」(1244)に備中の真名辺四郎・五郎を載せ,「源平盛衰記」(1255)に讃岐国住人真鍋五郎助光・四郎とみえる。 源平合戦時代の寿永3年(1184) 四郎は一の谷に籠城し,五郎は生田の森で河原太郎・次郎の兄弟を討取り平知盛から激賞された。
  さて,「源平盛衰記」に讃岐の住人とあるのは源平合戦によって真鍋一族は各地へ転戦し,特に平家方が根拠地と定めた地域に移居していたものではなかろうか, 伊予には真鍋二郎・三郎,藤九郎等切山伝説がある。よって此の期を真鍋の分散居住の第1期と称してもよかろう。 敗北の平家に従った真鍋四郎は屋島で討死し,五郎も西海に消えたといわれている。 現在, 真鍋島の惣津丸に平安形式の宝塔があるのは平家一門の供養塔と伝えられている。
  内海を背景に各地で転戦した真鍋一族は水軍であった。平家が長期間戦い続けられたのは清盛以来この内海の有力な水軍を味方にしていたからと言うことができる。
  寿永4年/文治元年(1185)平家滅亡の後は暫く真鍋氏は文献に見当たらないが室町の世となり,讃岐に真鍋五郎の末裔彌助祐重,周布には応永14年(1407)真鍋藤五,備中では享徳年間(1452)真鍋四郎の裔貞友, 成縄等が現れ, 右衛門大夫のころは塩飽島と因島の中間に位置する真鍋島の真鍋水軍として活躍し,飛島・北木・茂平,および讃岐の加茂,吉原等を知行していた。
  備中吉備津宮の社務代三村修理亮元親が文書に北木真鍋殿とあるのもこの頃のものである。この時期が真鍋一族が各地へ分散移居の第2期ということができよう。
  以上に基づくその後の真鍋一族の一端を述べれば,毛利家中に真鍋五郎左衛門,伊予では永禄3年(1560)の金子文書に真鍋佐渡守,天正3年(1585)石川軍に真鍋佐渡守・孫太郎・孫九郎・越後之助・大炊助,毛利と長曾我部との合戦に金子元宅属城高尾城で討死将士中に真鍋氏がいる。
  また,和泉には真鍋五右衛門・主馬,美濃には真鍋外記,その他摂津,紀伊,武蔵,岩代,豊前,長門,大和等にも後裔が繁栄しているといわれる。
  その頃,真鍋島には右衛門大夫の後裔真鍋藤太夫なる最後の真鍋城主がいた。  毛利の幕下で能島系の笠岡城主村上八郎左衛門景広と縁結びがあった。関ヶ原の役後真鍋島に留まっていた。福山城主水野家代官東清兵衛の訪問をうけたが仕官も従わず。その後,九州小倉の細川氏の家老となっている。前述の村上景広を頼って小倉に移った一族もある由,また,一族は真鍋島を中心に末裔が現今まで繁栄している。
出典: 大阪まなべ会々報第5号に掲載の第3回全国まなべ会総会記念講演要旨,
講師は元笠岡市文化財保護委員長 住吉 巴 氏