兵庫県と多可町の『まなべ』さん
全国でまなべ姓が多い都道府県は愛媛県(1、652)、香川県(1、550)、大阪府(917)、北海道(697)、福岡県(668)と続き、次の6番目が我が兵庫県(552)です。 ( )内は第35号全国まなべ会々報よりの世帯数を示す。
しかし、歴史上「まなべ」姓が文献で初めて登場するのは「まなべ」姓の多い愛媛や、香川ではなく我が兵庫県です。平家物語巻9「二度懸」に出てくる平家方の備中国まなべ島の住人真鍋(部)四郎祐久、五郎助光兄弟です。
(同兄弟の消息についての考察を第56号阿波まなべ会々報に全国評議員の利夫さんが記しておられるので次頁に転載します)
約820年の昔、寿永3年(1184)2月7日、登場する場所が現在の神戸市は三宮の繁華街、現在の生田神社界隈です。源平合戦にかかわる史跡や、遺跡などは県内に多くありますが、平家方の五郎助光兄弟に関するものは残念ながら見当たりません…が、彼に射倒された武蔵国住人河原太郎高直、次郎盛直兄弟の祠が戦災、都市計画などにより転々と場所を変えて、現在は三宮神社境内の隅にひっそりと鎮座しております…、が…真鍋(部)の文言は全くありません。
これは平家物語原本の作者として有力視されております信濃前司行長が作り、生仏と言う盲目の音楽家に教え語らせたや、源光行などとともに源氏方の流れをくむ方々の作であり、又、物語が源氏方からみた展開(勝者の論理)となっております。このため同兄弟に係る史跡、遺跡のたぐいが見当たらないことと関係があるのではと存じます。
多可町の真鍋さんはこの時代から、現在の場所に住み始めたと伝えられております。
昭和58年第1回全国まなべ会まなべ島大会(総会)にご参加された故真鍋又治郎さんが下の通り大阪まなべ会の会報第5号に語っておられます。
しかし、生田の森ではなく、一の谷の北方は加東郡社町 (現加東市)の三草山ふもとで防御していた平家方の大半の郎党は加古川を下り屋島へ逃走したが、加古川を北上して落ち延びた子孫であるとも言われております。
昭和59年6月1日付第5号大阪まなべ会々報より
瀬戸内海の水軍と真鍋島 |
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真鍋島は瀬戸内海の東西両潮の分岐点に位置し,古来より内海航路の要衝地であった。島名は魚部(まなべ)よりきていると言われ,西行法師の山家集(1190)の「まなべ」の歌や,寛永年間(1624~40)の鯛網の記録等はこれを裏付けるものであろう。この島については島名と同じ真鍋氏について述べる必要があることは言うまでもない。 |
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由来,真鍋氏は平安時代に移住し,この島を本貫とする開発領主と考えられる。かの「平家物語」(1244)に備中の真名辺四郎・五郎を載せ,「源平盛衰記」(1255)に讃岐国住人真鍋五郎助光・四郎とみえる。 源平合戦時代の寿永3年(1184)
四郎は一の谷に籠城し,五郎は生田の森で河原太郎・次郎の兄弟を討取り平知盛から激賞された。 |
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さて,「源平盛衰記」に讃岐の住人とあるのは源平合戦によって真鍋一族は各地へ転戦し,特に平家方が根拠地と定めた地域に移居していたものではなかろうか,
伊予には真鍋二郎・三郎,藤九郎等切山伝説がある。よって此の期を真鍋の分散居住の第1期と称してもよかろう。 敗北の平家に従った真鍋四郎は屋島で討死し,五郎も西海に消えたといわれている。
現在, 真鍋島の惣津丸に平安形式の宝塔があるのは平家一門の供養塔と伝えられている。 |
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内海を背景に各地で転戦した真鍋一族は水軍であった。平家が長期間戦い続けられたのは清盛以来この内海の有力な水軍を味方にしていたからと言うことができる。 |
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寿永4年/文治元年(1185)平家滅亡の後は暫く真鍋氏は文献に見当たらないが室町の世となり,讃岐に真鍋五郎の末裔彌助祐重,周布には応永14年(1407)真鍋藤五,備中では享徳年間(1452)真鍋四郎の裔貞友,
成縄等が現れ, 右衛門大夫のころは塩飽島と因島の中間に位置する真鍋島の真鍋水軍として活躍し,飛島・北木・茂平,および讃岐の加茂,吉原等を知行していた。 |
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備中吉備津宮の社務代三村修理亮元親が文書に北木真鍋殿とあるのもこの頃のものである。この時期が真鍋一族が各地へ分散移居の第2期ということができよう。 |
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以上に基づくその後の真鍋一族の一端を述べれば,毛利家中に真鍋五郎左衛門,伊予では永禄3年(1560)の金子文書に真鍋佐渡守,天正3年(1585)石川軍に真鍋佐渡守・孫太郎・孫九郎・越後之助・大炊助,毛利と長曾我部との合戦に金子元宅属城高尾城で討死将士中に真鍋氏がいる。 |
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また,和泉には真鍋五右衛門・主馬,美濃には真鍋外記,その他摂津,紀伊,武蔵,岩代,豊前,長門,大和等にも後裔が繁栄しているといわれる。 |
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その頃,真鍋島には右衛門大夫の後裔真鍋藤太夫なる最後の真鍋城主がいた。 毛利の幕下で能島系の笠岡城主村上八郎左衛門景広と縁結びがあった。関ヶ原の役後真鍋島に留まっていた。福山城主水野家代官東清兵衛の訪問をうけたが仕官も従わず。その後,九州小倉の細川氏の家老となっている。前述の村上景広を頼って小倉に移った一族もある由,また,一族は真鍋島を中心に末裔が現今まで繁栄している。 |
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出典: |
大阪まなべ会々報第5号に掲載の第3回全国まなべ会総会記念講演要旨, |
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講師は元笠岡市文化財保護委員長 住吉 巴 氏 |
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